《本コラムには映画の結末やストーリーに関する記述があります。》

 
わずか14歳でフランス王家へ嫁ぎ、18歳でフランス王妃に。最高の栄誉と贅を手にしたマリーアントワネットだったが、実際には24時間取り巻きに囲まれ不自由な毎日だった。世継ぎを問題やフェルゼンとの忍ぶ恋などゴシップネタにつきない彼女。一方でフランス革命の波が迫っていた。母として、女として。彼女は何を感じ、どう生きたのか?【公式サイトはこちら

巷では賛否両論のようですが、ぼくは良くできているなあと思いました。歴史的史実とかそういうことで批判されているむきもあるかと思いますが、これはどう見ても、純粋に青春映画ですよね。
で。いきなり余談で恐縮なのですが今のハリウッドの映画の傾向を見ていて思うのは非常に意欲的に作っているということ。作家性を強め、従来の切り口や視点を壊して、新しい表現方法を模索しようというチャレンジが非ハリウッド系のインディー映画だけではなく、けっこう金のかかった大作でも試みられている点に感心してしまうのです。これは日本、韓国、台湾などアジア映画の台頭による映画の多様性やタランティーノ、ショーン・ペンといったアンチハリウッドな監督・役者陣の功績も大きいと思うのです。これは決してハリウッド批判ではありません。こういういわゆる非本流を取り入れてうまく吸収していくところもハリウッドのすごさですし奥深さだと、改めて思う次第です。

さて前置きがずいぶん長くなりましたが、いよいよ本題です。ソフィア・コッポラという監督。僕は「女版たけし」という気がします。北野武監督が「男がいかにくたばるか?」をテーマに描き続けてるのと同様に、彼女は「少女がいかにして美しく死ぬか(青春期を殺すか)」ってことについて描くことを作家としてのテーマにしているのではないでしょうか。そしてもしかしたら彼女は少女時代に何らかのトラウマをもっているのでは?と思わせるくらい執拗にそのテーマを追い、彼女自身、強く意識している気がします。技術的な面でいうと、すくないセリフ、映像による描写、そしていくつもの映像的記号、そこにいくつかのヒントがを散りばめられているスタイル。これらにも北野武との共通点があるように思います。そしてストーリーテリングということよりも、自身の感情や哲学、考え方を映画という媒体をとおして表現しているところなども似ていると思います。だから本作は「マリーアントワネット」という人物のことをそもそもはなから描こうなんていう気はさらさらなかったんじゃないか?と僕は思っています。たとえば北野武監督の「座頭市」を観て「あれは時代劇じゃない」と文句を言ってもはじまらないみたいな感じでこの「マリーアントワネット」も近世ヨーロッパを舞台にした大河ドラマとして観るにはちょっと無理があるし、きっとそんな映画を作るつもりははじめからまったくなかったと思うんですね。

さて、「冗長」「緩慢」といわれているこの映画の脚本ですが、僕にはじつによく計算されていて、ひとつひとつをつないでいくと意外と多くのことを語っていることが見えてきます。キーワードは「反復」です。
「朝の着替え」「食事」「ルイの狩り」「音楽会での拍手」「パーティ」。こうしたいくつかの繰り返しというのは、武の映画でもよく見られますがコントの手法ですね。繰り返すことですこしづつ違っているそのときの感情の変化や状況を語っていくやりかたです。そしてほとんどのシーンで感情表現は表情によってのみ行われています。そこがもしかしたらわかりにくさや単調さを感じさせているのかもしれませんがよく見てみるとじつは物語も感情表現も豊かに盛り込まれているのです。わかりやすい例として挙げるとするならば、まずこの映画の売りとしてはヴェルサイユ宮殿でのロケがあるはずなのですが、肝心の宮殿内部でのシーンの多くが役者のバストアップに近いいわゆる「寄り」のカットで構成されています。豪華な宮殿を見せるはずの「引き」のカットはそれほど印象的には使われていません。これはセリフやナレーションを排し、役者の動作や表情の演技で感情表現を試みた結果、顔のアップやバストショットを多用しなければならなかったのだと思いますし、ここから明らかにソフィアは意図してセリフを排除しているものと思われます。

とくに「ルイ16世(オーギュスト)」の表情の変化にそれがよく表されています。無表情で粛々と王室のしきたりをこなしてゆくルイ。これは不慣れな習慣に戸惑うマリーと、はじめ、あまりに対照的に描かれています。
しかし例の音楽会での奔放な彼女の振る舞いを静かに見つめる(ここでのルイの表情はほんとうに転換期として強く印象的に、それでいてとても静かに描かれています)あたりをきっかけに、すこしづつマリーに心を開き、素直に本来の人間的なやさしさを見せてゆく彼の表情の推移が、何より雄弁な語り手として存在していることを、これから見ようとしている方はぜひ見逃さないでほしいなあと思うのです。これはソフィアの男性への眼差しが色濃く反映されているのではないでしょうか。批判が多くありますが、恋のお相手フェルゼン伯爵をあえてを軽薄な間男として描いたのはおそらくですがルイ16世のように内なる意志と厳格さ、そしてほんとうのやさしさと知性を持つ男性への(ソフィアのごく個人的な)
ある種の尊敬や憧れの気持ちが込められていたように思います。


最後に。この映画の大きな特徴はこれがソフィア・コッポラの自伝映画みたいなものだ、ということです。
彼女は1971年うまれ。僕と同じで35歳です。音楽はちょうど彼女がティーンエイジャーだったころに流行った音楽。つまり彼女がクラブに行って朝帰りしたりかっこいい男の子とのときめく恋に惹かれながらも、やがて地に足の着いた静かな感情に支えられて生きる事へのたしかさや誠実さを発見していく、という彼女自身の「青春喪失物語」なのです。
重要なのは、昨年ソフィア・コッポラはこの映画の舞台であるフランスヴェルサイユ出身の「Phoenix」というバンドのボーカリストの間にできた子どもを出産しているということ。つまりソフィアはこの映画の制作とほぼ同じタイミングでママになっているというわけです。これはおそらくこの映画をつくるうえで、また視点を形成していくうえで大きなウェイト占めていたものと思われます。
破天荒な女の子が若くして結婚し、まだ遊び足りないと感じてる少女が出産を機に大人の女、真の人間らしい生活に目覚めて行く。これはまさしくこの数年のソフィアの人生と重なる部分が多く、この映画作りに強いインスピレーションを与えていることは明らかです。
さらに一部ではこの作品はデビュー作から連なる「青春三部作」の完結編などと見る向きもあるようです。
そこで、あの問題のラストシーンのふたりのやりとりをもう一度思い出して欲しいのです。「並木をみてたのか?」「いいえ、お別れを言ってたのよ」。
このセリフはとても深いというか、単にマリーが宮殿や人生にサヨナラを告げてたのではなく、35歳になり母親になった「女性・ソフィア」が、かつての青春の想い出や無邪気な「少女・ソフィア」に決別する、という強い意志があのラストには込められていた。そう考えることはできないでしょうか?だからこそ(つまり自身の自伝的映画なのだから)、最後の断頭台のシーンなどはまったく不要ですし、そもそも誰もが知っているマリーアントワネットの生涯の結末など、いまさら描く必要などないわけですから。
しかも驚くなかれ。このラストシーンであるマリーアントワネットが国外脱出を図ったのは1789年、マリーが34歳になる年だったのです。というわけでこの映画は100%ソフィアコッポラの自伝映画であると思うのですが、みなさんは、いかがでしょうか?