《本コラムには映画の結末やストーリーに関する記述があります。》

 
戦争の傷跡が深く刻まれた町サラエヴォに住む大学生のオルガ(ナード・デュー)は、講師としてフランスからやって来た映画監督(ジャン=リュック・ゴダール)に自作の映像作品を渡したのちに・・・・・。
『映画史』『愛の世紀』などで知られる、フランスの巨匠ジャン=リュック・ゴダールが、サラエヴォの厳しい現実を少女オルガの生き様を通して描いた意欲作。ゴダール特有の詩的な映像が堪能できるとともに、マフムード・ダーウィッシュやピエール・ベルグニウといった、フランスやサラエヴォと縁の深い芸術家たちが実名で登場している点も興味深い。【公式サイト】

今回はちょっとというかかなり難解な映画です。そう、ゴダールです。もうこの名前を聞いて「うへえ、まいった」という方もいらっしゃるかもしれませんが、この「アワーミュージック」という作品は本当に美しい映画です。そして、彼はもう75歳を過ぎているのですが、とても若々しくチャレンジにあふれた瑞々しい作品なのです。ですから、ぜひとも多くの人に見てほしいと思いますし、そのためにも、ちょっとじっくりこの作品の構造を見ていきたいと思います。なに、 だいじょうぶですよ。なにせゴダールですから、ちょっとやそっとのネタバレで、オチがわかって観る価値なくなるような、そんなヤワな作りはしてませんから。 なんせ、足腰がしっかりしています。
さて、内容に関してなんですが、あくまで「ゴダールにしては」という前置きは必要ながらも、なかなかわかりやすい構成になっていて、僕は楽しめました。 おそらく二度三度(もしかしてそれ以上)見ないと、ちゃんと筋は見えてこないあたりは相変わらずですが、それでも各パーツがちゃんと映画の本質的メッセージを発しているので「まったくわけがわからん」ということは、おそらくないと思います(まあそれでも、決してわかりやすい映画とは言えませんが)。

この映画の大きな構造としましては、殺戮シーンのコラージュで構成された「地獄編」とストーリーの中心である「煉獄編」、そして最後に「天国を映像化する」というゴダールの無謀な試みが行われる「天国編」という3つの章に分かれています。
最初の「地獄編」では西部劇や戦争映画、日本のサムライ映画などさまざまな映画の戦闘シーン&殺戮シーンとともに、第一次大戦や第二次大戦、ナチスや広島、ムッソリーニなど、そして世界中の紛争のニュース映像や記録フィルムが並列でコラージュされて次々とスピーディーに展開されていきます。そして「今でも人類が生き延びているのが不思議なくらい、人類の歴史は殺戮の歴史である」という内容のナレーションが入ります。これは映画の戦争・殺戮シーンとい う「フィクション」と、実際の戦争ニュース映像や戦場カメラマンによる記録映像という「ノンフィクション」が入り乱れることで、見てる側が、どれが映画のシーンでどれが現実の映像なのかが判別できないようになっていて、ある種の恐ろしさを実感することになります。これは明らかにゴダールの意図によるものです。
この地獄編の終わりに入るナレーションでは「サラエボを忘れたの?」と語られます。ここでこの映画の主題が暗示されているわけです。その主題についてはのちにくわしく紹介しますが「対立と並列」という関係性のことです。また、この殺戮シーンを編集した「地獄編」というパート自体が、つづく「煉獄編」のなかで主人公・オルガが劇中のゴダールに渡すDVDである、というようにも観ることができます。

さて次に「煉獄編」です。これがまあこの映画としては「本編」にあたる部分といっていいでしょう。ちなみに「煉獄」というのは「主にカトリック教会の教義において、死後、地獄へ至るほどの罪はないが、すぐに天国に行けるほどにも清くない魂が、その小さな罪を清めるため赴くとされる場所である」とされ、ダンテの「神曲」などにも登場します。これはあくまで推測ですが、ゴダールはこの煉獄をいまの私たちの住む世界、ようするに今生というか現世、みたいなものとして位置づけているのではないか。天国と地獄の「あいだ」にある、「この世」がすなわち煉獄である、と。この映画の構造を見る限り、そのように解釈できるように思うのです。そしてこの「あいだ」というのが、じつは大きな意味を持っていることが、のちに判明します。
また映画には主要な登場人物としてパレスチナ人、ユダヤ人、スペイン人とインディアンなどが出てくるうえ、映画の舞台はソ連の弾圧やボスニア紛争で「民族浄化」という名の下に大虐殺が行われ、深刻な民族対立を経験した場所でもあり、さらに遡ると第一次大戦のきっかけとなったオーストリア皇太子暗殺事件の舞台でもあるサラエボ、というわけです。
さて、冒頭シーン、サラエボの空港で「本の出会い」というイベントにフランスから招かれた監督ゴダール。そして彼と車で同行するのがサラエボの現状をデジタルビデオで四六時中撮影し続けるイスラエル人女性記者(=見る女/ジュディット)。そして大学へ向かいそこでゴダールらは「本の出会い」というイベントに出席するのですがそのゴダールの講演を聴く学生の中に「誰かが横にいて何かを話しかけているよう な気がするのにそれが何だかわからない。でもなにかを必死で見ようとする」ロシア系ユダヤ人女子学生(=目を閉じる女/オルガ)が、ジュディットと対比的に存在します。ここでこの二人「見る女」と「想像する女」が、典型的な対立軸として登場しているのだと思います。そして、その「あいだ」にいるのは、実はゴダールその人なのです。
印象深かったのは「本の出会い」というフォーラムで、映像についての講演を学生に対し行うシーンです。ハワード・ホークス監督の映画のシーンを引用し、男のアップで男が語り女のアップで女が語る、いわゆるカットバックの手法について説明します。そして続けて、ユダヤ人虐殺写真とナチスの映像を同じようにカットバックの手法で対比的に映し出します。その次には、パレスチナ人への弾圧の映像とイスラエルの写真を同じくカットバックの手法で対比的に映し出していきます。かつて虐げられた者が虐げる側になり、その繰り返しが人類の歴史であり、その被害者加害者の区別さえほとんどつかない、かのようにゴダールはここで語っています。ゴダールはこの男女の映像の切り返しを説明しながら、このふたつのカットを結ぶ真ん中に事実がある。だがその事実は映されない。その事実を見ている二人によって語られ、その事実は、ふたり双方の、つまりふたつの真実として対立する事になる、というわけです。これがまさにこの映画の主題であると思われます。
そしてさらに別のシーンで、その主題は、さらにその輪郭をすこしずつ表してきます。なにげないエピソードとして街の中心部を流れる川に架かる橋が登場します。これはふたつの土地を隔てる川と、それを結ぶ橋。つまり対立を融合へと導く為の並列関係。つまり向き合うのではなく、ただ並び立つ事で手を結ぶ事が出来る、というひとつの主題であると同時に、地獄編での「フィクション」「ノンフィクション」という対立の川に橋を架ける何者かがあり、それはすなわち映画(=ゴダール)だと彼は訴えているのではないかと思うのです。男と女の切り返しショット、ユダヤ人とナチスの切り替えしショットなど対立、そしてその間に流れる川を結ぶ何らかの意図、それが映画であり橋であるということなのですね。ちょっとわかりにくいかもしれませんが映画を観ていただくとそのへんもうすこしわかりやすいと思うのです。


ちなみに「デジタルカメラは映画を救いますか?」と問われたゴダールは無言という回答(non)で応えます。これは、記録(=見る=ノンフィクション)では事実は映し出せない。ちょうどフィクションとノンフィクションというふたつの岸の「あいだ」にある映画(=詩=橋)でなければ、それを映し出す事はできない、というメッセージであると、僕は思いました。
さてオルガ(=女子学生=ロシア系ユダヤ人=目を閉じる女)は、DVDをゴダールに渡した後エルサレムへ向かいそこで自爆テロを刊行し、死を遂げます。彼女の死は、映像化されていなくて、ガルシアからスイスの別荘で庭の手入れをしているゴダールへの電話、というかたちで登場します。これが「煉獄編」のラストシーンとなります。

最後の「天国編」。これはゴダールが描く天国です。「煉獄編」で死を遂げたオルガが森の中を奥へと進んで行きます。すると黒人の水兵が登場します。水兵は手に銃を持って警備をしています。歌が聞こえて来ます。「天国の通りさえ合衆国海兵隊によって守られてるのさ」みたいな歌詞のアメリカ海兵隊讃歌です(笑)。これはゴダールらしいジョーク、ですね。オルガは水兵の許可を得て鉄条網の門の中へと入ります。どうやらこの鉄条網の中が天国、というわけなのでしょう。
中に入ると躍動する若い肉体を露わにした男女が「ボール無し(=これは物質の不要な世界を象徴しているのだと思います)」でバレーボールに興じたり、本を読む人がいたり、笑い声があふれたりしています。そして、岸。打ち寄せる波。このあたりはとても美しい映像が続きます。オルガが、男性と美しい湖の畔で横に並んで座りリンゴ(おそらく禁断の実)を分け合って食べます。オルガは、理想(=民族の融和)のための自爆死という「行動」によって、「煉獄」から「天国」へと向かうことを神に許された、というわけです。ここにきて、ようやくこのオルガがおそらくはゴダールその人ではなく、彼のなかにあるひとつの理想の分身であったのでは?というあたりに思い至るわけです。それはかつての彼の作品「映画史」で、自分を映画の神であるかのように扱っていたゴダールが、自分を一文化人に貶めて、次なる若い世代に希望を見いだそうとする気持ちが表現されているのかもしれません。この湖が自宅近くのレマン湖であり、近年はまるで自主映画のように自宅に引きこもって撮影・編集をしているという年老いたゴダールの今を考えると印象深いシーンでした。そして最後はチャンドラーの小説「さらば愛しき女よ」の最後のフレーズを引用し「良く晴れた日だった。遠くまで見える。でもオルガのところまでは見えない」という台詞で映画は終わります。

総評としては、まず基本的には「地獄/煉獄/天国」「禁断の実」「BGMにバッハのカンタータの使用」など、全体にキリスト教の考え方をベースに作られていることがわかります。おそらく彼が伝えたいメッセージはいま人類に必要なのは「face to face」の関係から「side by side」の関係へ移行しようということなのではないでしょうか。
たしかに「煉獄編」での講演のシーンで見せた、ホークス映画から「ユダヤ/ナチス/パ レスチナ」のカットバックによる対比は、向き合う人々(face to face)を描き、その一方で「見る女=ジュディット」と「想像する女=オルガ」は交わることなく並列(side by side)に位置し、しかし同じ事を考えています。そして「隣に誰かいる」という女性のセリフも、天国で隣り合ってリンゴを食べるシーンも、橋の両岸という街のつくりも「side by side」なのです。舞台のサラエボでは、ボスニア紛争の時、それまで隣同士に住んでいたボスニア人家族とクロアチア人家族が、紛争をきっかけに殺し合った話を、紛争当時、聞いたことがあります。これはまさにそれまで(side by side)だった関係が、「民族紛争」という号砲を景気に一気に向かい合って(face to faceして)しまって起こった悲劇であるということの典型例であり、だからこの映画の舞台はサラエボでなければならなかったのではないでしょうか。思い出してください。「地獄編」の最後「サラエボを忘れたの?」というナレーションにはイラクやアフガンなど戦争に明け暮れる人間への、痛烈なメッセージであると思います。そして、そのひとつの解決作として、正面から向き合う(=対立)のではなく、ただ隣にいる誰かを、ただ1人の人として受け入れる(=並列)ことを呼びかけています。そう、この映画はゴダール流の、愛と平和と協調のメッセージなのかも知れません。そういえば「隣人を愛せよ」とは、他ならぬ聖書の言葉なのです。
それにしても今回、アメリカ嫌いなゴダールの映画に「アワーミュージック」という英語の邦題をあてているのは、日本人からゴダールへの当てつけ?などと考えてしまいましたが、みなさんはいかがでしょうか?