![]() 《本コラムには映画の結末やストーリーに関する記述があります。》 さて今回は僕自身が中学生の頃から愛読している村上春樹原作の作品ということで、ちょっとバランスがむずかしいというか、小説の批評みたいにならないよう気を付けたいのですが、しかしとくに今回の映画はそれがむずかしいのです。なぜなら、物語をひっぱる牽引役を縁者ではなく西島英俊の「ナレーション」が担っていることと、そのナレーションの内容がほぼ「原作の文章を忠実に」なぞっているからです。ここにはきっと賛否両論があると思います。ハルキ的世界をうまく再現しているといえばこれほど違和感なく表現することは難しかっただろうと思います。いっぽうで果たしてこれは映画化と言えるのか?映像化しただけではないのか?という意見もあるかもしれません。
物語は非常に単純です。第二次大戦のさなかに中国のナイトクラブでのんきにジャズ演奏をしていた滝谷省三郎が戦争の終わりとともに日本へ戻る。そしてある女生徒結婚し、ひとりの男の子が産まれるがその子を産んだ3日後、妻は息を引き取る。今後アメリカの時代が続くだろうと息子には「トニー」というアメリカ人風の名前をつけた。トニーは小さい頃からひとりでいることが好きだったし、ひとりで絵を描くのが好きだった。そんなふうにトニーはひとりでいることが多かったし、孤独でいることに慣れていた。むしろ孤独でない自分など考えられなかった。そのようにして時が過ぎたある日、一人の女性と出会い結婚する。そのことによってようやく彼は孤独でなくなった。だが孤独でなくなったことによって孤独をひどく恐れるようになった。そして妻を事故で失ったトニーはほんとうにひとりぼっちになる。
ひとりから、ふたりになって、ひとりに戻る。ただ、それだけ。しかしこの物語には原作者村上春樹がくり返し描いてきたモチーフが、その形を変えていくつも登場しています。トニーはおそらく「僕」あるいは「ワタナベくん」であり、妻は「風の歌を聴け」の鼠、「羊をめぐる冒険」の羊男、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の影のようである。彼らは不可分の存在であるが、それはいずれ失われる運命にある。そして実際に失われ、損なわれる。影(=妻)はおそらく僕(=トニー)自身の内面であり、僕とは合わせ鏡のような存在である。物語の中で妻は「服を異常なまでに買いまくり」ます。この異常な行動は、実体のない「影」が実体を必要とするときに身に纏うべきものの象徴として登場しています。そして妻(=影=自身の内面)の死によって残された衣服。それは多くの「影の影」であり、それらは霊安所のような衣装部屋で静かに葬られるのを待っているようにも見えます。それは父・省三郎が死んだあとに残された多くのジャズレコードが同じように、妻のからっぽの衣装部屋にしばらく置かれたあと処分されるシーンによって反復されています。これはいくつもの影(=内面)といいう存在の死、これを反復してみせることによって、「語らずに伝える」ということを意識的に行われていることは明白です。それは物語全体の構造が、戦時の捕虜処刑からはじまり、父の妻の死、トニーの妻の死、そして父の死と、死がリピートされることで進んでいることからもわかります。
こうした淡々とした一見なにもない物語の中に、サブリミナルのように同じモチーフをくり返し形を変えて登場させるのは、村上春樹の十八番であるし、市川準監督もそのことをよくわかって演出しています。彼はシーンの転換にカットや音などを使わずに、室内を映し出すカメラを水平に移動させ壁が来たところでできる暗闇をちょうど暗転の用に巧みに使っていました。かなり小説を読み込んで、世界観の表現に重きを置いたのだろうと言う努力のあとが見られる「プロの仕事」です。撮影の広川泰士も、世界的カメラマンということもあってかなり独自の世界を持っています。カラーなのにモノクロのような、あえて色を落としたフィルムの質感が、どこか北欧の映画のような色合いと寂しさと孤独感を見事に映し出しています。 |