《本コラムには映画の結末やストーリーに関する記述があります。》

市川準の描く「トニー滝谷」には象徴的で示唆的で印象的なシーンがいくつかあります。たとえば。よく晴れた日。妻が車を洗っている。それを傍に座って見つめるトニー。視線を感じおどけた表情で微笑みを返す妻。ホースの水しぶき。満ちあふれる幸福感。長いこと孤独だった人間が孤独ではないことを噛みしめている時間です。しかしそれは長く続かない。次の瞬間トニーの顔はまるで夏の夕立空みたいに一瞬で曇る。不安がよぎる。ナレーション。「それは妻があまりにも服を買いすぎることだった」。ここからもうひとつの主題である「妻の服依存症(=影の影の登場)が、描かれるちょうつがいの役割をはたすシーンになっています。もうひとつ。トニーと妻は父の演奏を聴きにクラブへ行きます。そこでトニーは父の演奏がいままでとは違って聞こえるように感じる。演奏も楽曲もなにひとつ変わったようには思わないのに、なにかが違う。それも決定的に。割れるグラス。場面転換。この流れも秀逸で、セリフや音楽を使わずに映画の流れを変えることに成功しています。

それと妻の死後、トニーは「妻と同じ体・足のサイズの女性」という奇妙な条件で家政婦を雇います。そしてその条件にピッタリあった女性が現れます。女性は例の衣装部屋でトニーの妻の服を着ながら涙をこぼし、やがて激しく泣き出します。このシーンも印象的で示唆的です。なぜ彼女は涙を流すのか?それは失われた妻(=トニーの影=トニーの内面)がまとっていた服であり、それは主人を失った執事のように、ポカンと置き去りにされてしまっているからです。自分が泣いていることの理由を家政婦はわかりません。トニーもわからないといっている。しかしトニーには本当はわかっているはずです。なぜなら泣いているのはトニー自身だからです。でもトニーは泣けない。ひとりでいることにあまりに慣れてしまっているからです。影(=妻・服・内面)はとっくの昔にすでに捨ててしまっているものだからです。だからトニーのかわりに、家政婦は泣いてくれているのだと思います。このシーンもいかにも村上春樹的で無機質ながらも無機質であるがゆえに、人間の感情の深さを痛感させるシーンに仕上がっています。

さてここから本題。僕が「物足りない」と感じたのはいったいなぜだったのか?演出が淡々としているからではなく、1時間ちょっとの小品だからでもありません。それは多用されるナレーションです。西島秀俊のナレーションが下手なわけでも、声が悪いというのでもありません。彼の声は細いけれど意志を感じ、すこし震えています。これは感情を抑えながらトニーの気持ちを代弁しているように思え、トニーの心理描写にはピッタリでした。ではなぜナレーションに問題があるのか?それは「村上春樹の作品を映画化する際には、やはりこの手しかないのか?」という懸念です。

かつて大森一樹が「風の歌を聴け」を映画化。主演は小林薫でしたが、あの作品でもナレーションを多用していたように記憶しています(違うかもしれません)。作品としては大森監督の「風の歌を聴け」よりは今回の「トニー滝谷」のほうが良かったことは間違いありませんが、大森作品にはインディーズ的なチャレンジがあったように思います。まあ当時大森さんも若かったので当然といえば当然なのかもしれませんが(それでもハルキ的なるものの呪縛から自由になれていませんが)。それにくらべ市川監督の演出はうまいし安心して見られるのだけれど、原作を映画という箱に移し替えただけ、という印象がなくはないですね。失敗を恐れず、ハルキ文体を映像化するチャレンジをしてほしかったです。

チャレンジといえば、この原作に恐ろしいまでに忠実に描かれているこの映画にあってたったひとつだけ、原作にないシーンがあります。それはラストシーンです。先の家政婦は結局、解雇されます。トニーは気持ちの整理をつけ妻の服もレコードも処分し家政婦にも解雇を言い渡します。一部、妻の服を彼女にはプレゼントします。原作では「そうしてほんとうにひとりぼっちになりました」という感じであっさりと終わります。ところが映画では、トニーは家政婦の女性の家に電話をかけます。彼女は都合によって電話には出られません。鳴り響くコール音。これはいったい何を意味するのでしょう。村上春樹の小説には電話がよく登場します。たしかよい知らせは電話で、悪い知らせは手紙で、というような法則があるような評論を読んだ気がします(逆だったかな)。そういうことが暗示されているのかも知れませんがこのシーンの追加によって、映画はすこし開けていて、明るい、新しい可能性が残されていることを示唆する終わり方になっています。もしかしたら市川準は、すべてを忠実に再現しておいて最後にこのシーンだけを新たに追加する、という手法によって、自分の解釈を際立たせる、という戦法をとったのかもしれません。それほど、このラストには、なにか大きな希望というか次へ進むための勇気のようなものが、感じられるのですが、みなさんはいかがでしょうか。
では、また、いつか。