![]() 《本コラムには映画の結末やストーリーに関する記述があります。》 この映画はハリウッドを去ったオランダ人監督が撮ったアメリカ批判だという風にも解釈できます。それは映画の内容が「正義」の名の下による暴力の横行や、勧善懲悪的な価値観の押しつけへのアンチテーゼのようにもとれるからです。様々な価値観や文化・宗教、民族が混在し、地理的にも隣り合った環境のなかでお互い占領ー被占領を繰り返し、かつてアフリカや東南アジアを植民地として占領して来たヨーロッパの歴史を考えたとき「そんなアメリカ的な白黒わかりやすい勧善懲悪じゃ成り立たないよ」と言いたかったのかもしれません。とくにかつて東南アジアを占領し、一大植民地を築き上げた過去のあるオランダの人が、ナチスに占領される事で味わったことへの、感情の「揺れ」があるのかもしれません。
さて、それでは映画のシナリオ上で、ちょっとわかりにくい点や映画を読み解く上で書かせない視点に付いて、僕なりの解釈を与えてみたいと思います。
次にオランダについて。オランダという国はもともとどちらかというと自由で寛容な国でした。いまでもマリファナなどのソフトドラッグ類について所持や使用が認められていますし、性に関する法律もかなりゆるい。安楽死などにたいする考え方もかなりリベラルです。そして移民に対しても寛容であったため、ユダヤ人にとってもヨーロッパにおける数少ない安住の地となっていたのだといいます。 「当時、ユダヤ人のことを密告すれば1人あたり10米ドルもらえて、多くのオランダ人がその金を手にした。アウシュビッツに収容されたユダヤ人のうち、最も比率が高いのがオランダから送られた人々。そうした過去を忘れてはいけない」 監督はあるインタビューでそう応えています。たとえばイラク開戦時におけるアメリカの言う「正義」を見ていても、現在の世の中は白か黒かの二者択一のみによって何事も決めようとする傾向にあるように思えてなりません。そうした風潮は、きわめてかつてのナチス的でもあり専制的であり欺瞞である。真実はそう簡単に割り切れる者ではなく、多くの問題がグレーゾーンのなかにあり、いつ自分が被害者にも、あるいは加害者にもなりうる存在なのだ。ポール・ヴァーホーヴェン監督はそう考えたのではないでしょうか? 「女は髪を切られ泥が顔になすり付けられ糞尿を浴びせられ牢獄にぶち込まれた。戦時の歴史文書にはこういったことが大量に記されている。私が映画で描いたことよりも遥かに醜悪な事が行われていた。アブグレイブで起こった事となんら変わりはない」 とも語っています。映画の中でエリスが刑務所で汚い言葉で罵られ、挙げ句に糞尿を浴びせられるシーンは、まだニュース映像が記憶に新しい、アルカイダのテロリストやイラク人を収容したアメリカ軍施設・アブグレイブ刑務所で行われた虐待・拷問を想起させます。それは「オランダ人自身がかつてこれをやったんだ」ということを監督はオランダの若者に伝えたかったのかもしれません。
最後に余談なのですが、近年になって出て来た新しい文献で、実はユダこそイエスが最も信頼していた弟子であり、神があえてユダに裏切りを命じていたのではないかという解釈が浮上しています。つまりイエスもそれを知っていて処刑されたということになります。ユダが裏切りそれを知っていて許し自らの死という運命を受け入れたイエス。それは何を意味するのでしょう?真相はもちろんわかりませんが、僕の思うに、人は非常時が襲った場合、とくにたとえば裏切りは横行すれば他人を信用できなくなっていきます。しかしそのなかで裏切りへの報復や過剰な行動が、そうした裏切りと報復の連鎖を生み出し、必ずしも善行にはならないし、寛容と許しのなかにこそ、解決への道があるという教訓につながるような気がしてなりません。そしてそれはそのまま、この映画のテーマでもあるような気がします。寛容な国・オランダがおかした過ちを省みるために、史実をもとに、さらにはイエスとユダの挿話をからませて、巧みに「裏切り」と「寛容」というふたつのキーワードを対立させながら、描いて行く。このように見て行くと、「ブラックブック」という映画の底を流れる監督のメッセージが、あぶり出しの絵のように、じわっと、それでいて鮮やかに浮かび上がってくるように思うのですが、みなさんは、いかがでしょうか。 |