![]() 《本コラムには映画の結末やストーリーに関する記述があります。》 ラスト15分。この実写パートがどのような内容だったのか。それについて具体的には、ここではふれないでおこうと思います。なぜならこの部分をどう観るかで、この映画の評価は分かれてしまうだろうし、それにこの部分がどんな結末かを知ってから観たのでは、この結末が良かったと感じたとしても、あるいは逆にダメだったと感じたとしても、その衝撃というか、破壊性というのは、弱められてしまうからです。なので、これは「是非!」映画館で、観てほしいですね。DVDではなく、映画館であることに意味があると思います。そういう意味で、一部このラストに対して「映画じゃない」「映画じゃなくてもよかったかな」という意見もあるようですが、逆に言うと、これは、このオチだからこそ、あえて映画でしかできないことだった、という風にも言えるわけです。DVDで「自宅で観る」というシチュエーションでは、ふつうになってしまうからです。
さて、ラストの展開について。僕は第一回「ドキュメンタリーパート編」にもちらっと書いたとおり、ある種の絶望感というのか、なんでこんなに笑えるコメディだったのに、落ち込んでいるんだろう?みたいな、そういうちょっといままで感じたことのない、複雑な感情にとらわれていました。それは同じく最初にも書いたように、これはおそらく松本監督の自伝的要素が強い映画であり、それもかなり自身の闇というか深い深層の部分を映像化しているからではないかと考えています。なんというか、あまり観てはいけないものを観たような感じがしたのです。それはなんというか、渇いた笑いを発するダークサイド、とでもいいますか、監督は暗黒面を「邪悪」なものとして描くのではなく、むしろ「空虚」として描いてしまった、という印象がしました。
脚本的というか技術的に言うと、おそらくこのラストの手法は、2回半くらいひねっています。ここまでずっとわりにわかりやすい笑いで辛抱してきた監督が、1回ひねりじゃなく、最後だけ急激に大きく舵をとっているのではないでしょうか。たとえば先の「CGパート編」に書いた僕の予想のように「恐怖」で終わるパターンも、当初、松本監督は考えていたようで「巨大化していない状態でキッチンにいる大佐藤に人間大の小ミドンが突然現れて」というエンディングも検討されていたようです。しかしそれを採用しなかった。それはたぶん、先にも引用した「笑いは緊張と緩和」という桂枝雀の名言にもあるとおり「意外性」あるいは「観客を裏切る」という意味では「笑い」に対して「恐怖」「あるいは「「泣き」を持ってくるのは、むしろ王道だと考えたのではないでしょうか。それでは、あまりラディカルではない、と。たとえば初代ウルトラマンの最終回でウルトラマンがゼットンに負けて死んでしまう、というのは当時ラディカルだったけれども、いまではそれももう新しくはない。もっと新しい方法はないのか?もっと大きく観客を裏切れないか?そこで「じゃあ、もう1回ひねるとどうなるか?」と考えてみた。それは「笑い」に対して「笑い」でひっくり返す、ということだったと考えます。
笑いを笑いでひっくり返す、というのはどういうことか。このあたりの見方についてちょっと考えてみたいと思います。たとえば「働くおっさん劇場」という番組がありましたが、普通のおっさんが出てきて喋るんですが、素人なんで間とかを外してて、話してる内容とかもまったくずれてて、普通にいそうなオッサンなんだけどちょっとヘンみたいなことで笑える、みたいなタイプの笑い。ちょっと今までになかった感じの変な笑いが生まれるみたいなのですよね。これ僕凄く好きだったんですが、基本的には「ドキュメンタリーパート」にはそうゆうテイストというかノリは受け継がれています。で、最後のシーンではさらにもう一回そこからひっくり返すみたいなことが行われているんですね。くわしくはストーリーに触れてしまうので書けないのですが、要するに「ドキュメンタリーパート」「CGパート」でおこなわれてきた作業をいったんグチャ混ぜにしてしまって、それらをぜんぶ台無しにしてしまう。もっといえばこれまで進んできた自分の作品に対して「なんでやねん」とつっこみを入れてしまう。というかなり破壊的で暴力的な作業だと僕は思います。
それがなぜ暴力的なのかというと、そういうことをしてしまうと、なんというか、もうマトモな感情は抱けなくなるというか、すべて「無」にしてしまうような、ちょっと恐ろしい力があるんですね。つまり、ここでこういうツッコミかたをするというのは、単にその映画のなかの構造をひっくり返しただけじゃなくて、たとえばあらゆるものを「ほら、こうひっくり返すとね」みたいな心理的副作用みたいな効果があって、一旦この視点を持ってしまうと、ちょっと危険というか、日常生活に支障がでてくるといったら大げさかもしれませんけどね。たとえば、「ネタとしてボケてる人」にツッコミ入れるのはあたりまえ、ですよね。そっから「素だけどヘン」な人を突っ込む、という段階があって、最後は「素でしかもフツウの人」を突っ込む、みたいな。「ボケないことがいちばんのボケ」みたいな。するとフツウの人のなにもないドキュメンタリーがいちばん面白いみたいなことですね。いちばんマトモな人こそがいちばんおもしろい、みたいな「恐ろしい転換」が生まれてしまう。(これが「ドキュメンタリーパート」を撮った意味でもあるかもしれません)。こうなると、あらゆることにつっこめるというか、むしろボケてない人をこそ突っ込む、みたいな、もうわからんかんじになってくるんですね。あえてぼけたりするのがもうしらじらしくて、逆にサイテーの邪道の笑いになってしまうという、そういう意味で映画というより笑いを破壊し尽くしてる感じがしますし、「大日本人」という作品が持つ最大の意図は、おそらくそこにあるのではないかと思います。
しかしこの笑いは危険と常に隣り合わせです。なぜなら、こうして突き詰めてしまうと、もう松本人志という人の後には草も木も生えない、というか。もうこれ以上の手法はないよ、ということになってくる。笑いを突き詰めることで、笑いそのものを否定するようなことになっていく、という大きな矛盾を抱えてしまうことになるんですね。ここに大いなる絶望というか、闇のようなものが、あるいは草木のない荒野のようなものが、ダーンと広がっている。そしてこの映画は自伝でもあるというわけです。自分という存在へのおおいなるツッコミです。なに悩んでんねんから、なんで映画やねん、しまいにはなんで生きとんねん、までいってしまう。そういうかなり危険な自己批判的ツッコミの嵐の中で「ハハハハハハ」と渇いた笑いを続けてる監督は「不気味な才能」という言葉がふさわしい気がします。これが観客を動員してることじたいが恐ろしいというか、ラディカルだとおもうのですね。で。このまま行けば、この先どんなものすごい作品ができるのか。僕としては「是非!」10作くらいは撮り続けてほしいと思うのです。そのときもしかしたら、この第一回作品を映画館で体験したということが、けっこう名誉なことだったということになってるかもしれません。まだ観てない人は、ここはひとつ、この絶望的に渇いた荒野の真ん中で、空虚な瞳をたたえながら、ひとりカラカラ笑っている、松本映画を、観に行ってみてはいかがでしょうか。 |