《本コラムには映画の結末やストーリーに関する記述があります。》

 
早朝。宝石店ティファニーの前でデニッシュを食べるコールガールのホリーは、引っ越してきたばかりの駆け出し作家ポールと出会う。酔っぱらいから逃げて部屋へ来て、眠り込んでしまったホリーにポールは好意を抱き、ホリーの夫ドクが彼女を連れ戻そうとするが、彼女は断ってしまう。そしてホリーがブラジルの外交官と結婚するのを知って傷ついたポールは、小説を売って得たお金をつきつけるのだが・・・。

おひさしぶりの更新です。前回の更新は6月。話題の「大日本人」だったわけですが、今回はうってかわってハリウッドの名作「ティファニーで朝食を」です。オードリー・ヘップバーン主演によるこの普遍的名画を、ふむふむシネマとしてどのように読むか。誰もが知っている作品で、数多くの批評やコラムで紹介されている作品だけに、僕自身ちょっと緊張しますが、ともかくチャレンジしてみようと思います。

舞台はニューヨーク。5番街のストリート。朝焼けの霞のなかから一台のキャブが現れ、ティファニー本店前で停車する。中から美しい女性が降りてきて、タクシーは走り去っていく。店の前ですこし憂いをたたえた瞳でウィンドーの宝飾品を眺める。そして紙袋からコーヒーとデニッシュを取り出し頬張る。ヘンリー・マンシーニが作曲した天鵞絨のように格調高く美しいメインテーマが流れる。どうでしょう。この名場面だけでこの映画は一級品だと思うのです。ただ、たしかにこの映画は名作ではあるのだけれど、この後、窓辺でギター片手にオードリー・ヘップバーン本人が歌うムーンリバーとラストの雨のキスシーン以外、あまり印象に残らない映画で、多くの評価でも、いちばん印象的なのはあの「名無しの猫」かもしれないというくらい、映画としての評価は低いのです。要するにオードリー・ヘップバーンのためにつくられた人畜無害なハリウッド的ラブコメで、カポーティーの描いた原作の幻想的な魅力が台無しになっている、という見方がどうやら一般的だと思われます。

しかし、果たしてそうなのでしょうか。もちろんそういう部分はあるだろうことは否定しません。しかし必ずしも僕はそれが正しい見解だとは思いません。それはあまりにアンフェアというか一方的な見方だと思うし、好き嫌いの問題はあるだろうけれど、僕はこの結末や設定の変更にそれほど大きな違和感を感じませんでした。もちろん「どちらか好きか」というような二者択一的な質問をされればおそらくは原作の方が好きだと答えるでしょう。でもそれはそもそも小説と映画では表現方法が異なるのはあたりまえだし、むしろまったく同じにするなら、はじめから映画にする意味なんてあるのだろうか、と感じてしまいます。そして僕はむしろ、この映画がつくられた当時の栄華をきわめたハリウッドと、いまのハリウッドの状況の比較を含めて、結末や設定がこのように変更されていることの意味を考えてみることも、とても示唆に富んでいるというか、ちょっと知的好奇心をくすぐられる事柄だと思うのです。

とりあえず今回は大きく異なる部分を確認しておきたいと思います。まずはもっとも大きな違いである結末です。原作ではホリーはブラジルへと渡りその後行方不明になります。しかし映画ではブラジル行きをやめ、駆け出しの作家ポールと結ばれます。それからホリーの職業が映画ではわかりにくくなっていますがコールガールです。ホリーの描写にしても原作ではもっとはすっぱで大胆な感じ、何を考えてるかわからないそれでいて男を惹きつけるミステリアスな魅力を持った女性として描かれていますが、映画では子猫のように可憐でナイーブな妖精のような女性として登場します。それに原作では作家ポールの心象部分にもうすこし焦点があたっていますが、映画でのポールは単なるお人好しな白人好青年という感じになっていますね。

さて、こうしたいくつかの違いはなぜ起こったのでしょうか。監督は、脚本家は、あるいは映画会社は、いかなる理由をもってこのように設定やストーリーを変更したのか。このあたりを中心にしながら、これはこれまで同様あくまで僕の勝手な推測ではあるのですけれど、ちょっと考えてみたいと思います。
では、また、あした。