《本コラムには映画の結末やストーリーに関する記述があります。》

さて、まずこの映画のストーリーをおさらいしてみましょう。主な舞台はニューヨークのアパートメント。高級コールガールであるホリーと、このアパートに引っ越してきたばかりの売れない作家ポールを中心に話は進みます。
さてまず、ホリーです。彼女は服装も交友関係も派手。映画では乱痴気騒ぎ的なパーティーのシーンも登場します。しかし実は彼女には知られたくない過去があります。貧乏な家に育ち、親にも捨てられ14歳にして農夫の男と結婚。しかしその生活から逃れるように、家出同然で街へ出ます。はじめ女優として活動しますがパッとせず、そこで得たコネを使って金持ち相手の高級コールガールとなり、このアパートメントでセレブパーティーなどを開催しナイトライフを満喫しています。
一方でポールは売れない作家。作品はわずかひとつの作品が出版されたのみでその後執筆すらしていませんし、いかにもなパトロン女史に囲われ生活をするのがやっと(いわゆるツバメですな)。このアパートメントにもそのパトロン女史のお金で住んでいます(ちなみに唯一出版されているポールの作品タイトルが「Nine Lives(9つの命)」で、これはサリンジャーの「Nine Stories」を意識しているのではないでしょうか)。
つまりふたりともに暮らし向きは華やかだけれども、まったく胸を張ることのできない身分にあるわけで、なんとなく見てると気づかないのですが、ふたりは簡単に言ってしまうと娼婦(正真正銘)と男娼(みたいなもの)なのです。ここのあたりを理解しないと「いつかティファニーで食事でもするような身分になりたい」という原作でのセリフの意味がわかりにくくなると思います。

さて、違いの意味、という核心に迫る前に、もうひとつこの映画の大きな柱について言及しておく必要があると思います。それはこの映画の中で「名前」が非常に大きな意味を持っているということです。
たとえばホリーの飼っている猫(この猫がチャーミングで物語にもたびたび登場し名演技を披露しています)には名前がありません。ホリーは「CAT」と呼び、ホリー自身のシンボルのように描写されます。そしてホリーの本当の名前は「ルラメイ・バーンズ」といい、前回にも書いたように田舎に夫がいます。彼女を引き戻しに来た夫に向けて彼女は言います。「もうルラメーはいないのよ。私は別人なのよ」と。それからポールは「フレッド(フレッドはホリーの兄の名前)」と皆から間違えて呼ばれ続け、そのことにうんざりしています。またブラジルの富豪は「家名」が汚れることを極度に嫌っていますし、他にもパーティのシーンでモデルエージェントのO・J・バーマンは、ポールに「彼女のことを本物だと思うか?」と問います。ポールは「ああ」と答えます。するとO・J・バーマンは「そうだ本物の、偽物だ」と言います。同じくO・J・バーマンはホリーとポールが面倒に巻き込まれたとき彼女を「偽名」でホテルに泊まらせろ、と指示します。
このように「名前がない」あるいは「名前が固有のものではなく交換可能」な一般名詞のようになってしまっていることをほのめかすシーンが、数多く点在しています。これはどういうことなのでしょうか。
で。そこをグッと考えることで、ふたりがティファニーでお菓子の景品の指輪に文字を彫ってもらう微笑ましいシーンを思い出すのです。ただ、あのシーン、映画では結局どのような文字が彫り込まれていたのかがわかりにくいんです。僕自身何回も見ましたが確認できませんでした。ただ、この話の経緯から考えるとおそらくですが、あすこには「PとR(もしくはL)」すなわちポールとルラメーのイニシャルが刻まれていたのではないでしょうか。つまり、すべてが交換可能で固有性のない、ふわふわした現実味のない世界のなかで、あのおもちゃの指輪にだけ、ふたりの本当の名前(すなわち固有性でありリアリティ)が刻み込まれている、というわけです。

こうした背景にはおそらく1960年代初頭のアメリカの空気が反映されていると思います。それは「自由」というものへの憧憬と、そのいっぽうにある「連帯」というやすらぎへの喪失感ではないでしょうか。
高度な資本主義社会になっていくことで人々は豊かさ謳歌します。と、同時に個人としての幸福感や家族や地域などコミュニティの連帯感は薄れていきます。そうした高度にソフィスティケイトされた世の中では自分が誰で何者なのかがわからなくなっていくのですね。この映画はそうした側面を反映させているように思うのです。
「そんなの目新しくもないぜ」と思うかもしれません。しかしいまでこそ、そうした社会派ドラマが成り立ちますが、当時のハリウッド映画ではそれは描くべきメインテーマにはなり得ませんでした。ですので、むしろこの映画や「アパートの鍵貸します」のビリー・ワイルダーがお得意としたラブコメの中に社会的なサブテーマをかるく散りばめるという手法は、当時は斬新だったのではなかったか、と思うのです(ちなみに「アパートの鍵貸します」の公開は「ティファニーで朝食を」の前年である1960年)。つまり当時はまだいまにくらべて、シンプルな時代だったわけですね。だから前向きでシンプルでわかりやすい。でもそんななかにも、後にアメリカの暗部を暗示させる萌芽のようなものが顔を出している。ここにこの映画の面白さがあると思うのです。要するに、圧倒的におおらかで無反省でマッチョなハリウッドから、70年代以降(つまりはベトナム以降)の傷つき病的で閉塞感を剥き出しにした現代ハリウッド映画への、ちょうど中間期にあたるのではないかと思うのです。

しかも(というか、だから)このテーマは、実はいま日本が抱えている問題とよく似ていることに気がつくのです。このことについてくわしく語るのはこの場所にふさわしくないので別の機会に譲るとして、いま改めてこの映画を観てみると、そのことが、つまりこの映画が問いかけていることが、以前見たときに比べてずいぶんとよくわかる気がするのです。つまり、いまこそこの映画の真の良さがわかるのではないか、とも思うのです。さてそれではいよいよ、その原作との比較からこの映画の魅力を、かなり大胆な視点で語っていこうと思いますが、それは次回に。
では、また、あした。