《本コラムには映画の結末やストーリーに関する記述があります。》

ところで。じつはこのホリーの役は、はじめマリリン・モンローをイメージしていたとカポーティは語っていて、映画を見たときにずっこけて椅子から転げ落ちたというエピソードが残っています(もちろん結末にも・・・)。たしかに原作を忠実に再現するならどう考えたってマリリン・モンローであるべきだし、ブラジルへ旅立ちそのまま消えてしまう・・・という原作の結末にしても、マリリン・モンローならピッタリだと思います。しかし実際にはオードリー・ヘップバーンになった。そしてそのためにこの映画は原作のダークな部分(あるいは深い部分)が弱められ、おしゃれで繊細でなだけの浅はかなファッション映画になってしまっているという評価が、映画通のあいだでは定着しているようです。でも僕は決してそうは思いません。

ここでひとつの仮説です。マリリン・モンロー主演で原作通りの結末でこの映画が作られたと想像してみます。するとどうでしょう?それはあまりにマリリン・モンロー的映画になってしまい、かえってステレオタイプというか陳腐になってしまったのではないでしょうか。売れないヌード女優ノーマ・ジーンとしてアンダーグラウンドで活躍していた過去があり、いまはマフィアや麻薬の噂も取りざたされるアメリカのセックスシンボルであるマリリン・モンローが、この都会的な哀しみをたたえた物語を地で演じる、いわゆる「体当たりで演じた」的作風となっていたことでしょう。それも60年代当時ならそれは相当にセンセーショナルだったのかもしれませんが、いまの視点で観るとかえって閉口するような気がするんですね。僕は「現代的視点」で見るならばかえって妖精のようなオードリーの演じる「コールガール(に見えない)ホリー」にむしろリアリティを感じるし、彼女だからこそこの映画は普遍性を持つことができたのではないかと思うのです。だし、たとえば凡庸な青年と奔放だけれども繊細な少女の不思議な出会いという設定は、村上春樹の小説に出てくる設定としてかなり強い既視感があります。つまりこちらのほうが少なくとも現代的なわけで、見てる側にもたしかなリアリティを感じることができるのです。

ラストシーン近くで、あくまでも自分自身の自由を求めるホリーに対しポールは「君は臆病者だ。人がせいいっぱい生きること、人を愛することをさえ認めたくないんだ。だがお互いが人のものになる、そのことでしか人は幸福になれない。いっぽうで君は君自身の自由だけを求めながら、結局自分でつくった檻に閉じこもっているだけじゃないか」と非難します。そして例の指輪を投げつけます。指輪の文字を見たホリーは我に返り、名無しの猫を抱きながら、ポールと雨の中でキスをして、ハッピーエンドというわけです。
この問題の原作と違うラストに、原作を知っている人からはとくに批判的な意見が多いようです。しかし先にも書いたように、映画と小説ではその表現方法が異なりますし、それに応じた改編があっても構わないだろうと僕は思います。それよりも「なぜ」「どのように」改編されたかを考え、そこに納得できる新しい発見があれば、むしろそのような違いは大歓迎です。

さて、ではそろそろ結論です。僕はホリーがブラジルへは行かず、ニューヨークに留まりポールを選ぶ、という原作とは異なる結末。僕は「案外悪くないぜ」と思っています。たしかに安易なラブコメ路線といってしまえばそうかもしれません。しかし原作の結末はあまりに60年代的ではないか、という気がします。ちょっともうそういう時代は終わったんだよ、という気恥ずかしさというか諦念のような気持ちになるのです。むしろ、いま2007年という地平に立ってみると、映画でのホリーの結末にこそ、人間的に大きな決断が込められているように思え、共感できるのです。そしてこれは決して単なるハッピーエンドでもないぜ、ってことなんですね。彼らの今後の生活は、そんなにかんたんなものではないでしょう。おそらくふたりがこの後もし結婚したとしても、2〜3年で離婚してしまうのではないか、とさえ思います。それでも、というかそれをわかったうえで彼女はその場に留まった。留まらざるを得なかった。ここに現代に通じる、深い絶望とそこから思いが。つまりこれは「結局、私は憧れの世界である向こう岸には、永遠にたどりつけない」という哀しい運命を受け入れることではないかと、僕は想像するのです。彼女は歌います。


ムーン・リバー、
それはとても大きくって広い流れ
いつかは颯爽と渡ってみせるわ
夢を見させるのも、いつだってあなた
夢を砕くのも、いつだってあなた
だからあなたの流れゆくところどこまでも
わたしもずっと追いかけていきましょう

ふたりは流れ者みたいに冒険へと旅立つの
まだ見ぬ世界が山ほどあるに違いないわ
わたしたちは同じ幸福を夢見ている
そうしてその幸福はあの弧を描く虹の向こうで
ずっとずっとわたしたちが来るのを
待っているのかもしれないわね
幼き友だちムーンリバーと、そしてわたしを


この難解な曲をこの映画の内容とあわせて僕なりに意訳してみました。アメリカ南部。月の映る川。それはどこかハックルベリーフィンの冒険を思わせ、また黒人奴隷達の夜の逃避行を連想させます。このムーンリバーという歌はなんとも不思議で奇妙な歌詞で、よくこの曲を歌っているアンディ・ウイリアムス氏も「歌詞の意味はよくわからないんだ」と語っていたそうです。
ときどき出てくる「you」は川、すなわちムーンリバーであり、彼女は川をこえたいと願いつつ、川は幼なじみの友であり、一緒に旅へ出ようと歌う。これ、主人公と川との関係性が読みにくいんですね。これは僕の深読みかもですが、これはこの映画の主題(つまり原作とは違うテーマということでもあります)とも重なるのではないか。つまり彼女は自由を求め夢見ていて、目前にはそれを阻むように広大な大河が横たわっています。そこでまっすぐに向こう岸へ渡ろうとする彼女。しかし川幅は広く、結局彼女は川の流れに身をまかせ、渡るのではなく川の流れとともに横へと流されていき、永遠に彼女は「向こう側」へは行けません。つまり彼女は永遠に囚われの身なのです。そして、その先にあるまだ見ぬ世界も虹の彼方の幸福も、おそらく手にすることはできない、とわかっているかのような気さえしてきます。そして僕にはこの歌は、自由を求めて旅をした多くの先人達の闘いと、川で溺れて死んだ者への哀悼歌といいますか、死んだ哀しみを慰めるため、「死んだ人は愛しき流れに乗って虹の彼方にある幸福へと旅立ったのよ」と歌っているようである、と。
映画に転じてみると、死んだのは「ルラメー」という不幸な女の子であり、大人になった「ホリー」がこの歌を歌うことで「ホリー」自身を慰める。そして最後あの「指輪の文字」でホリーはもう一度「ルラメー」として生まれ変わる、という結末だったとは考えられないでしょうか。これは難しいことばで言うと「引き裂かれた個人の自我とその回復」ということになるのですが、つまりこの映画の主題が、テーマソングに乗って、まるで通底奏音のように静かにそれでいて繰り返し流れていたのです。そう、この物語の謎を解く鍵は、実はこの難解な歌詞に隠されていたのではなかったかと思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。