安アパートがまるでドミノのように立ち並ぶ一角。
そのドミノの中でもさらに肩身が狭そうに
立っているアパートの一室が茂雄の部屋だ。


今夜もいつものように職場の後輩のテツと共に、
少しばかり遅い仕事の後の小宴会を始めるべく
石のようにゴツゴツとした茂雄の手が自宅の扉を開ける。
毎度その扉が開く度にリアクションを取るのが
テツの仕事でもあるようだった。

「でたー。殺人臭!」

テツがおちゃらけて鼻をつまむその横を、
何の事はなしとばかりに茂雄は部屋に入っていく。

「シゲさん、この臭い何とかなりませんの?
 これじゃその内、隣近所から告訴されまっせ」
「そん時はそん時や」

そう言いながら、
茂雄は台所付近に散乱するゴミ達を拾うわけでもなく
手慣れた手つきで脇の方にぶっきらぼうに寄せる。

「シゲさん、もう年で鼻おかしなってしもうたんでしょ?」

いつもの調子でテツがゴミを寄せる茂雄を茶化し、
茶化された茂雄はフンと鼻で返す。
頑固一徹。しかし茂雄のそんな所が
テツにとっても居心地の良い部分でもあった。

大工を生業とし、40年。
16歳の頃から仕事だけは寄り道せず一途に取り組んできた。
それは茂雄の誇りでもあり、言い方を変えれば
唯一の心の支えであるとさえ言える。
そんな茂雄にも一直線に進む事の出来なかった
もう一方の道があった。

「シゲさん、そういえば息子さん達もういくつですかね?」
「12と、あと14か」
「ほえー、あの坊ちゃん共も、もうそんななるんですか。
 前見た時はまだこんなカワイイ赤ん坊やったのにねえ」

妻と息子達が出て行ってから10年の月日が過ぎていた。
その日仕事から帰ると、いつもの騒がしさはなく、
代わりに一枚のメモが古くなったテーブルの上で
隙間風に揺れていた。

『あなたへ ごめんなさい』

少し慌てて書いたような筆跡の、
そのあまりに淡白な一行を思い出しながら、
茂雄は一つ目の缶ビールを空にした。
「何か作るか」
茂雄が立ち上がりさっき買い物をすませてきた
スーパーの買い物袋をぶらさげ、台所へ向かう。
中から取り出したキャベツを手際よく切り、
沸騰したお湯で軽く茹でた後、
ツナ缶、蜂蜜、醤油なんかを和える。
匂いにつられて後ろで見ていたテツが即座に一口つまむ。

「おっ、ツナキャベツ。懐かしなあ。
 よー、奥さんつまみに出してくれはりましたもんねえ」
「……」

言った後で、その気まずい空気を読み取ったテツが
途切れなく話かける。

「あっ、えーと、今日はあと何買わはったんですか…?」

テツの慌てぶりを見て茂雄が鼻でフンと笑う。
テツが16歳の時に、茂雄の仕事場に入ってきて12年。
昔と変わらぬテツの不器用な性格に、
茂雄は腹ただしさよりも親近感を覚え、
そしてそれを気に入っていた。

茂雄は無造作に食料品が突っ込まれた冷蔵庫に、
さらに無造作に今日の買い物を突っ込んでいる。
中にはとうに賞味期限の切れた野菜や、
卵なんかが入っているが、
当の本人にはそんな事は大した事ではないらしい。
冷蔵庫を見れば誰もがそう納得できる中身をしていた。

「えーと、トコロテンに、バターに、
 フルーツカルピスに、…ってフルーツカルピス!?
 シゲさん、こんなん飲まはるんですか」
「それはこっちの分や」

茂雄はカルピスの瓶を掴むと、仏壇に備え、
合掌をし、なにかぶつぶつと三度程唱えた。
そんな茂雄を見守るように仏壇の最上段から
年老いた老婆の写真がこちらに微笑みかけている。

「あ、お母さんのね。なるほど。
 …で、あとは、きざみあげに、
 ん?ビン、ゴ、ボン、ゴ…?
 あっ、これ知ってますよ。
 なんや小中学生に人気のジュースや言うて
 テレビでこないだやってましたわ。」

テツがスーパーの袋からゴソゴソと
オレンジ色の液体が入った瓶を2本取り出す。
パッケージにはオレンジを
キャラクター化したイラストが入っており、
それこそ茂雄の見た目とは正反対の出で立ちをしている。

「お仏壇のお母さんもこんだけ
 ジュースばっかり飲まはったら
 お腹破裂するんちゃいますか」
「それは俺が飲むんだよ」
「またー」

買ってきたものの残りを冷蔵庫に片付けると、
茂雄はツナキャベツと、
500mlのビール缶を二缶手にし、
テレビの前に腰を下ろした。

「ほれ、いいからテツもこっちきてつまめ。」

かれこれ、こうやって茂雄とテツが仕事の後に
集って飲むという日々も十年程になる。
どちらかというと無口な茂雄は
職場でも同僚達とウマが合わず、
一方ずかずかと懐に踏み込んでくるテツの存在は
口には出さないが、茂雄にとってもありがたい存在だった。
一緒に飲むといったところで、
結局はテレビの野球観戦をしながら、
テツが一方的に喋っているだけなのだが。

「…シゲさん、実は俺今度アイツと結婚する事にしたんですわ」
「ん?おー、そうか。やっとお前も世帯持ちになるんやな」
「はい。…シゲさんは奥さんや子どもさんとはもう?」
「…。んー」
「あ、すんませんっ。また俺いらんこというてからに」
「いんや、いいんや…」

二本目のビールが空になり、しばらくの間、
テレビからはこの部屋の空気とはかけ離れた
熱のこもった実況アナウンスだけが淡々と流れていた。
茂雄は相変わらずいつもの場所のいつもの姿勢でテレビを眺め、
テツは横になりながらうとうとし始めていた。

「一年ほど前にな…」

突然の茂雄の開口にふいをつかれたテツは
出かかったよだれを袖で拭きながら体勢を起こした。

「…え、なんですか?」
「一年ほど前にな、ある夢を見たんや」
「夢…」

茂雄はビールを一口ぐいと飲むと続きを話しはじめた。

「その夢は、俺とテツがこうしていつものように
 酒を飲みながらテレビを見ていると、
 突然インターホンが鳴る。
 そして、玄関を開けると
 妻と二人の息子がそこに立ってるんや。
 俺は三人を迎え入れる。
 テツは妻に笑いながらビールを差出し、
 俺は息子達にジュースを注いでやる。
 一つの机を囲んでみんなで座るんや。
 それで、みんなでいざ乾杯をしようとすると
 突然妻と息子のグラスだけが
 まだ飲んでもいないのに
 どんどん空になっていくんだよ。
 それで結局乾杯ができず俺が慌てふためいていると、
 そのまま妻と息子がなんにも言わずに
 玄関から出て行こうとする。
 俺は引き止めようとするが、
 俺の声が聞こえないのか
 そのまま出て行って戻ってこないんや。」

テレビの実況だけがその時の茂雄とテツの間に
漂う空気と時間を埋め続けていた。
テツの飲みかけの缶ビールは炭酸が
もうほとんど抜けてしまっている。

「そんな夢を一年ほど前から、
 ほとんど毎日のように見るようになってしまってなあ。
 俺も単純な男でな。これだけ同じ夢をみるんだから、
 もしかしたらこれが本当になるんじゃないかって。
 だからあいつらが帰ってきた時には
 せめて乾杯のできる飲み物ぐらいは
 用意しておきたいって思うわけや」


時刻は日付けが変わる少し前、二人の一日が終わる頃、
いつものようにテツが机に散らばった
つまみの袋や空き缶なんかを片付けはじめると
茂雄もその時だけは机の上を一緒に片付け始める。
テツが示す「今日はお開き」の合図なのだ。

「それじゃシゲさん、また明日。
 はよ寝てしっかり休んでくださいよ」

テツが片方の靴に足を入れたその時、
祭りのあとの静かな部屋に突如、機械音が鳴り響いた。
深夜一時のインターホン。
とっさに茂雄とテツの動きが止まった。
そして、どちらからともなく目を合わせる。
茂雄の様子を見て、
テツは自分が開けるべきだと思った。

「シゲさん、僕が開けますさかい」

テツがゆっくりと扉を開けると、長身の男が一人立っていた。


「すいません、当社の新しい浄水器を
 是非一度お試しいただけないかと思いまして」


茂雄は丁寧に長身の男の願いを断って見送り、ドアを閉めた後、
黙り込んでいるテツにおもむろに冷蔵庫から飲み物を取り出した。
あの茂雄とは正反対の出で立ちをしたオレンジ色のジュースだ。

「テツ、もう一回だけ飲み直すか」
「…え、でもシゲさんそれ…」
「俺、一回これ飲んでみたかったんや」

大の大人が二人、缶ビールの転がる部屋の中、
オレンジジュースで乾杯を始めたのは
ちょうど日付けが変わってすぐの事だった。

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