8.
「ナントカよ、町へ出よう」と言ったのは、誰だったのだろう。
ぼんやりと曇った低い空の下、彼もまたぼんやりと、そんなことを考えていた。
これといってやることのない週末。
朝起きて唐突に、何故かその中途半端なフレーズが頭に浮かんでしまい、
そのナントカの部分すら思い出せずに、
結局自分の泥のような記憶の沼から糸口を見つけることが出来なかった彼は、
今日は1日暖かい家の中だけで過ごそうと思っていたちいさな意思をあきらめ、
「誰か」の言ったとおり、とりあえず「町へ出る」ことにした。
家を出て向かった先は、彼の住む街で一番大きな本屋だった。
(といっても、けして広い街ではないので、一番といったところで知れているのだが。)
その本屋は、駅前のちょっとしたショッピングセンターにある、
定期的に入れ替わる単行本と文庫本の新刊とおびただしい種類の雑誌が店先に積まれ、
その奥には、いくつかの長い棚の列にさまざまな厚みの本が静かにおさまる、
いたってごく普通の本屋だった。
彼は、本屋が好きだ。
ちょっと考えてみれば、そんなことを知りたいだけなのだったら、
パソコンの電源を付けてインターネットで調べれば、ほんの数秒ですむ話だ。
でも彼は、本屋に行って、その静かな本の列を指でそっとなぞりながら、
自分の記憶の沼から目当てのフレーズを捜しあてることしか考えていなかった。
こんな風だから、いつまでたっても上手く世の中を渡っていけないのだ。
ふと、会社の上司の苦い顔を思い出したりしてしまう。
そんな自分に気付きながらも、
彼は今日もまた、自分ひとりの心地よい世界の中で生きている。
週末の正午前、本屋はひまをもてあます人がいくらかいる程度で、
彼にとってはありがたく過ごしやすい空間だった。
カウンターに立つ店員も、この時間帯にせっせとそれぞれの仕事をこなしている。
きっちりと色分けされた文庫本の背が並ぶ棚を出版社別に順番に辿り、
折り返してぐるりと裏側の棚に移ったところで、
彼はそのタイトルに出逢った。
「書を捨てよ、町へ出よう」
そうだ、寺山修司だ。
彼は満足し、書を捨て、再び町へと出て行った。