9.
重そうに、分厚いグレーの雲に覆われていた冬の空は、
いつの間にか、かすかな雲の切れ間からのぞく太陽のひかりをこぼしていた。
街ゆく人々のほおをほころばせる明るいひかりは、
彼の心のかたくなさまでも溶かしていったのか。
彼は、いつもと違った幾分軽い心を連れて、週末の街をあてもなく歩いた。
もう、目的はなかった。
それでも、彼は今日はまだ、家へ帰ろうとは思わなかった。
なにかの拍子に、突然、ひとは変わることが出来る。
かたくなに、なにかを守りつづけるのと同じように。
なんの前ぶれもなく、彼の身体に降りかかってくる。
今朝、唐突に降りてきた、ナントカ修司(もう忘れかけている)が言ったとおりに、
彼は自分が必死に手の中に掴んでいたものを捨て、町に出た。
このまま電車に乗って、どこかに行こうかとも思ったのだが、
とりあえず駅前のコーヒースタンドで軽く昼食でも取ることにした。
それから今日の午後をどうするか考えても、けして遅くはない。
この店は彼のお気に入りのひとつで、
コーヒーが美味しいことはさることながら、
ここのサンドウィッチがまた特に気に入っていた。
ちょうど昼どきということもあり、
カウンターの前には短くはない列がすでに出来上がっていた。
いつもの彼ならば、ここであきらめて帰ってしまっていたかもしれない。
でも、気分をかえた今日は、
少しくらいの時間なら列に並んで待つことにした。
(どうせ、これといってやることもないのだ。)
彼のひとつ前に並ぶ背の低い女の人がカウンターで注文をするまで、
列に並びはじめてから数分が経っていたのだが、
その人がふと客席の方に目をやるのに振り返った途端、
彼は思わずちいさく声をあげた。
彼のその声に反応して、
そのままの姿勢で肩越しに見上げるように彼の目を見たその人は、
ライブハウスで出逢った、彼女に間違いなかった。
あの時と違って、必要以上に明るく照らされたコーヒースタンドの中で、
彼女はさらにちいさく見えたが、
あれからもうすでに1ヶ月近くが経とうとしていたが、
彼が彼女のことを見間違えるはずがなかった。
穴が開くほど彼女の大きな瞳をのぞき込み続ける彼を、
彼女はさらに瞳をまるくして、不思議そうに見上げるしかなかった。