11.

シンプルな布製のカバーをつけた文庫本を開きながら、
まだ湯気のたつコーヒーを飲んでいた彼女は、
彼が自分のトレイをかたんとテーブルに置くと、
ゆっくり彼を見上げてから自分のトレイをそっと手前へと引き寄せた。
「あ、ごめん。」
と彼が言い終わる前に、彼女はちいさな声で言った。
「ごめんなさい。なんか、席とっちゃったみたい。」
彼女の表情は、笑っているのか機嫌を悪くしているのか、さっぱり判断できない、
なんともいえない真面目な顔をしていた。
ただ、彼は彼女の声を初めて聞き、
胸の奥の真ん中のあたりが嫌な感じにざわめくのを感じた。
もっと、もっと彼女の声を聞きたい、と思った。

立ち尽くす彼の返事を待つことなく、
彼女は早々に再び文庫本へと視線を落とした。
その冷静さに少しほっとした彼は、ようやく席につくことができた。
いつも飲み慣れた、濃いめの熱いコーヒーをすすると、
彼もほんの少しだけ冷静さを取り戻せたような気がした。
おもむろにサンドウィッチを袋から取り出してかぶりつき、
一気に3口ほど頬張りそれを飲み込む頃には、
目を伏せる彼女の顔を正面から盗み見できるくらいになっていた。
あの日は暗いライブハウスの中で気付かなかったが、
彼女のおでこはとてもなめらかで、チャーミングだった。
伏せたまつげは、その大きな瞳にあわせたように長くまっすぐに伸び、
小刻みに震えているのがよくわかる。
前髪を無造作にヘアピンでとめているので、
左の眉の上にちいさなほくろがひとつ、あらわになっていた。
そのほくろに、何故かどきりとした彼は、再び自分のペースを忘れてしまい、
唐突に、この沈黙を破った。
「こないだ、」
「えっ?」
不意に話しかけられた彼女は、顔を上げ無防備に聞き返した。
「こないだ、ライブハウスで君を見たよ。」
「…こないだって、先月のこと?」
また、このまん丸な瞳に見つめ返され、また、この声を聞くことができた。
もっと、もっとこの時間が続いてくれるように。
話しをしなくては。

「うん、先月。友達のライブ見に行ってたんだけど、君も出てたよね。」
彼女の瞳の中にあるこころの表情は、読み取りにくい。
それでも、今の彼はひるまない。
「あ、そうなんだ。」
あっさりと言い捨てて彼女は再び読書へ戻ろうとしたが、
何かを思い出したようにふとまた顔を上げて、ぽつりと言った。
「つまらないライブだったね。」
真面目な顔のまままっすぐに言い放った彼女が痛快で、
彼は思わず吹き出した。
「ははは。確かに、つまらないライブだった。」
彼女は、思いもよらなかった彼の正直な返答に、
頬杖をつきなおして次の台詞を待った。
すこし緊張しながらも、彼は、自分の気持ちをきちんと伝えようと、
言葉を選んだ。

「でも、君の存在感だけが、救いだった。」