16.
彼女のバッグの赤いチェックの魔法瓶には、
たっぷりの温かいコーヒーが入れられていた。
ふたりは、並んでベンチに座り、
ひとつのコップを順番に渡し合いながら
冷えた身体にコーヒーを流し込んだ。
キンと冷えた空気に、湯気に包まれたコーヒーの香りが満ち、
彼はようやく緊張感から身を緩めることができた。
並んでベンチに座るふたりは、電線にとまる雀のように見えるだろうか、
とつまらないことを考える余裕もある。
「ほんとはだめなんだろうけど、」
唐突に、ぽつりと彼女が口を開いた。
また、いつもの誰に向かって話しているわけでもないように。
ベンチから降ろされた彼女の細い脚が、
ぶらぶらと落ち着きなく宙を泳いでいる。
恥ずかしがっているような、もしくは拗ねているようなそのしぐさが、
(けっしてそんな訳ではないことは分かっているが)
どうしようもなく愛おしい。
「ここに、わたしの猫がいるの。」
彼女の話す意味が、彼には全く理解できなかった。
「ここに?」
ちょっとした勇気を持って、彼女の顔を覗き込むように聞き返した。
この公園に住む猫を「わたしの猫」と言っているのだろうか。
「うん、ここに。こっそり埋めたの。」
彼は、とても驚いた。
「彼女の猫」は、ちょうど1年前の今日、眠るように死んでいったらしい。
人で言うと、もうすっかりおばあさんの歳だった。
人も動物も、歳をとるということは、
きっと自然でいて途方もなく大変なことなのだ。
ペット専用の葬儀屋が車で家までやってきて、
ほんの1時間ほどで灰になった猫を、彼女は受け取った。
その「彼女の猫」を、
この公園の今目の前にある木の下にこっそり埋めたのだという。
毎月の命日にはここへひとりでやって来るらしく、
もうちっとも悲しそうではない彼女は、
また足をぶらぶらとさせながら、寒そうに肩をすくめてコーヒーを飲んでいる。
何か、彼女にしてあげられることはないだろうか。
彼は必死になって考えた。
そして、ふと何かを思いつき、
「ちょっと待ってて。」
と彼女に言い残して、急いでバス停の方へと走っていった。