19.

今日の彼女は、めずらしく、淡いピンクのスカートを履いている。
ひらひらと軽やかに、春風に舞うそのスカートを、
この遅い桜の下での散歩のために彼女が選んだと思うと、
彼はうれしく思って仕方がなかった。
初めて見た彼女の足(いつも会うときは、ジーンズを履いていた)は
その桜色のスカートからまっすぐにのびて、
いつものちいさな黒い靴を履いている。
(その靴は、よく歩く彼女らしく、かかとが低くて如何にも歩きやすそうだ。
ほどよくくたびれた柔らかそうな革は、
彼女がそれを大切に履いていることがよく分かる。)
今日も、そんな彼女のうしろ姿に置いて行かれないように、
気を抜かずに彼もよく歩く。

ドラマチックな出来事は、そう簡単には訪れない。
薄暗く汚れたライブハウスで出逢った時。
駅前のコーヒースタンドでなにかの悪戯のように再会した時。
そして、初めてのデート、彼女の猫が眠る公園へ行った時。
それらは、紛れもなく彼の人生の中で、
忘れようのないドラマチックな出来事だった。
それでも、雷に撃たれたように彼女に恋をしたことも、
ふたりでこうやって並んで歩くことまでも、
知らず知らずの間に、彼の生活の中で自然なことと消化されるようになる。
じんわりと汗をかくほど緊張感をおぼえながら彼女のそばにいたことを考えると、
今の彼は、とてもリラックスした穏やかな気持ちで、
ごく自然に彼女の傍らにいると同時に、
言葉少ない彼女からも、隣に彼がいることを容認しているということを、
そのしぐさや表情から感じることが、今では出来る。

今日は、まったく春らしくよく晴れて、
ここまで来る途中に美味しいと有名なパン屋(少し高いが、確かに美味しい)で
買い込んで来たパンを広げて、ベンチで昼食をとることにした。
いつもの赤いチェックの魔法瓶には、
彼女が淹れた今日1日分のたっぷりのコーヒーが入っている。
ひとつひとつ袋に入れられたまだ少しあたたかいパンを、
彼女は正確に、自分の分と彼の分に分けた。
「チョコレート、すきなの?」
ほんの数十センチ先にある、少し上目遣いに彼を見るそのおおきな瞳に、
また胸がどきりといった。
こんな瞬間は、今もなお多くあるのだが、
この距離感に慣れてきている自分に、彼は驚く。
ふたりが座るベンチの間に広げられたパンは、
くっきりと種類を分けられている。
彼女の側には、ハムのサンドウィッチとくるみパン。
彼の側には、チョコチップの入ったメロンパンとチョコレートパイ。
後悔しても、もう遅い。
情けなく眉を寄せる彼に、彼女はくすくすと無邪気な笑顔を見せて、
全てのパンを半分ずつにした。

彼女がひとつ笑う度に、ふたりの距離は1センチずつ縮まってゆく。