23.
そこここに出来た大小の水溜りは、
まだ暮れようとしない明るい太陽の光をきらきらと反射させ、
彼はひとり居心地の悪い思いで家路を急いでいた。
まるで、明るく輝く世界から人知れずたったひとりだけ逃避するように。
そして、うつむいたまま家に帰る最後の角を曲がろうとしたその時、
彼は、聞き覚えのある(忘れられる訳のない)あの声を耳にする。
はっとして、今さっき足早に渡ってきた横断歩道の反対側を振り返った。
点滅する信号の向こう側に、彼女の小さな背中が見えた。
彼は、いろんなことに驚いて身じろぎも出来ずに、
ずっと黙って彼女の後ろ姿を見ていた。
車の行き来する道路を挟んで、何故か彼女のあの小さな声が聞こえたこと。
こんなに近くに、彼女がいたこと。
そして、彼女の隣には、親しげに男がひとり、寄り添っていること。
毎日必ず通るこの名もない交差点は、哀しいほどドラマチックに姿を変え、
突然、彼の視界を彩った。
小さな彼女は、隣の背の高い男に無邪気にもつれて、
ふたりはしっかりとその手と手を繋ぎ合っていた。
それは、彼と彼女が訳も分からず運命に突き動かされたように
不安な距離を埋めるために繋いでいた手と手とは、
まったく違うもののように、彼には見えた。
雨が上がった後のじめっとした暑さが、急に彼を襲った。
目の前の世界がくらくらと迫って来る。
彼は、地面に両脚をふんばって立っていることが精一杯だった。
その時、彼女が一瞬、こちらを見た。
その振り返り方は、彼がそこにいることを知っていたようにも見えたし、
まったく偶然のようにも見えた。
ただ、彼女がその一瞬の後、彼の目をまっすぐに見てそっと微笑んだことは、
間違いなかった。
彼女がそっと目をほそめて口許でちいさく微笑むと、
鈴がりんと音をたてるように、息苦しかった蒸し暑い空気はふと涼しくなり、
不思議なことに彼は泣きたいくらい幸せな気持ちになった。
目が潤むのをこらえながら、彼も笑って応えようとした時には、
彼女はもう隣の男とのふたりの世界へと戻っていった。
そして、彼と彼の目ににじんだ涙だけが、その交差点に取り残された。
音もない世界の中、目の前をただ車だけがひっきりなしに横切っていく。
視界を遮る車の先に彼女の後ろ姿を追う気力も、もうない。
そして、1台のトラックが轟音と共に彼の前を通り過ぎた後、
彼の見える範囲に彼女の姿はすでになく、
彼は、ようやくあきらめた。
もう、期待をすることもない。
また家に帰って、夜になれば寝て、朝が来れば起きればいいのだ。
ただ、彼女と出逢う前の朝日とはきっと違うふうに見えるだろうけど。
ただ、それだけのこと。